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漢方の診察方について
プロたんでございます。先日、品川の駅近くの散髪屋さんに行き、「丸刈」にいたしました。
これからの「夏バージョン」と言えば聞こえは良いのですが、いろいろと事情があって、
医師と相談の上、思い切ってバッサリやりました。
病院の中にも理容室があるのですが、どうも、後ろに患者さんが並ぶと、お先にどうぞとやってしまう。
どうぞどうぞといい続けていたら、とうとう半日過ぎてしまった・・・。(笑)
そんなこんなで、たまたま品川に良い理髪店をみつけました。
関係ない話で恐縮ですが、本屋さんの隣にあります。ここの本屋のご店主に「安くて、上手な床屋」を探していると言ったら、
「隣がそうだ。」と、言われた。(笑)ウソッと思って横を見たら例のクルクル看板が立っていた。
入ったら、これまた本屋のご店主と同じ口髭を生やした店長がいたのには驚かされた。
なんとご兄弟と聞いて、なんだと、笑ってしまった。
話によると親の代からやっている老舗で、雰囲気もなかなか昭和初期の雰囲気があって、気に入った。
一番気に入ったのはご店主の気質であることは言うまでもないことであるが、なんといっても、
散髪鋏一本の世界、心地良く老朽化した流しの形、真鍮の留め金、なんとなく書院風の丸鏡、手入れの行き届いた調度品、
掃除しまくりの木の床など、とても懐かしく小生の楽しみとなっている。
「本当にいいんですか?」とご主人はためらったが、小生が事情を言うと、カミさんが奥からでてきて、
蒸しタオルで、真綿でくるむようにそっと「患部」を巻いて頂き、最後まで親切にして頂いた。
このBLOGもお読みになって頂いていると思うが、あの時は正直感激して涙がでました。
有難う。この場を借りて心より感謝申し上げます。
それから「病み付き」になり、何度もお邪魔してすみません。
仔細は抜きにして、きっとご子息もいつかは外国から愛用の鋏を持参し、お手伝いしてくれることでしょう。
親子のご縁は、決して鋏では断ち切れません。デンマークがどの方向か小生わかりませんが、子息の無事を
神に、そしてその方角へお祈りしております。
ご主人、親子の確執の背景は子の成長なのです。親も成長しなければなりません。
立派なご夫婦を神が見捨てるワケもございません。共に邁進しましょう。信じていれば、必ず子息は帰ってきます。
それにしても気持ちよいですね。涼しいです。でも日差しが強いとたまりませんので、外出時は帽子を
愛用しております。(笑)
さて、この文書は5月中旬に書き留めましたが、あまりうまくまとまらず、一旦没といたしました。
がくっ。TCさんのサーバーがなぜか固まり、小生のPDAから送信したファイル総てが
文字化けを起こすといういきさつもございました。
TCさんの責任は問いませんが、短気を起こした小生はとことんこの点を追及し、担当者を
つるし上げ、自身のめちゃくちゃな誤字脱字を棚に上げ、まったくもって汗顔の至りでございます。
「めぐ」のチーフ、川西女史からいろいろと諭され、業界の狭さを痛感すると同時に、皆様のご厚情に触れて、
はじめて我が身の足らなさを反省しております。
なんと・・・・その後、何人かのお客様から「漢方の診察方法」、「東洋医学」の診断について
今ひとつ理解が得られないとのご質問メールが、本サイト(プロたん薬局のweb)にも来ている
との業務からの連絡もあり、
恥ずかしながら、今一度没原稿を再度呼び起こしたというお粗末ないきさつでございます。
幸運ながら「めぐ」の川西様は大学時代、生物化学を修士専攻しておられた業界では「異色」の才女で、
まさに千載一遇の思いでございました。
次回、機会ございましたらゲノム創薬についてのご講釈をお受けしたいと楽しみにしております。
有能なマネージメント・ディレクターの矢澤くんまでご紹介を頂き感謝申し上げます。
さて、例の通り大幅に脱線いたしました。本題にはいりたいと思います。
漢方診察方法について・・・
当初からこのような事を申すのは、どうかと反省しておりますが、自信ございません。詳細につきましては、各ご高名な先生方が執筆されている書籍が販売されておりますので、
ぜひご一読されることをおすすめいたします。(ほとんど丸投げ状態)
6月上旬の原稿ですが、BLOG原稿が前後しております。この点、深くお詫び申し上げます。
漢方(かんぽう)、漢方医学(かんぽういがく)とは 伝統中国医学の系譜で、
日本では『傷寒論』(しょうかんろん)と『金匱要略』(きんきようりゃく)と呼ばれる古典の治療方法に基づいております。
現在は漢方薬による治療のみを指すことが多いのですが、元来は鍼灸や按摩、食養生なども含んでおります。
漢方という語は江戸時代にヨーロッパの医学(蘭方医学)が伝わり始めた頃に、
そちらと区別するために使われるようになったいきさつがございます。
また、明治時代以降は、皇方・皇漢方・和方・和漢方とも呼ばれました。
症状を含めたその患者の状態を証(しょう)と呼び、証によって治療法を選択するというのが大きい特徴かも知れません。
隋証論といいます。
証を得るためには、四診を行うだけではなく、患者を医師の五感でよく観察することがまず必要であるということも特徴です。
医師の経験論、つまり経験法です。
ご承知のように西洋医学では、患者の徴候から疾患を特定することを「診断」と呼び、
これに基づいて疾患に応じた治療を行います。
しかし漢方医学では、治療法を決定すること自体が最終的な証となります。
例えば葛根湯が最適な症例は葛根湯証であるというふうに。
証の分類と治療法の選択について、以下のようにさまざまな理論化がなされて参りました。
気血水理論による診察法
例えば気血水理論では、
気(き) ⇒人間の体の中を巡っている仮想的な「生命エネルギー」のようなもの。
血(けつ) ⇒西洋医学でいうところの血液ではない。
水(すい) ⇒西洋医学でいうところのリンパ液ではない。
の3つの流れをバランスよく滞りない状態にするのが治療目標となります。
陰陽五行理論による診察法
また、陰陽五行説も理論化に用いられております。
四診
治療法を決定するためには四診(望、聞、問、切)を行います。
望診(ぼうしん) ⇒医師の肉眼による観察。体格、顔色、舌の状態等。特に舌の観察をもとにした診断を舌診(ぜっしん)と呼び重要視される。
聞診(ぶんしん) ⇒医師の聴覚、嗅覚による観察。患者の声、咳の音、排泄物の臭いなどから診断する。
問診(もんしん) ⇒漢方独自の概念はあるものの、基本的には西洋医学と同様に家族歴、既往歴、現病歴、愁訴を問う。西洋医学よりも詳しく、一見無関係な質問も行い、全身状態の把握に努める。
切診(せっしん) ⇒医師の手を直接患者に触れて診察する方法。脈の状態から診断する脈診(みゃくしん)と腹の状態から診断する腹診(ふくしん)が特に重要である。
陰陽
陰陽は様々な文脈で用いられました。
例えば『傷寒論』では病状を陽と陰に分類し、それを更に三分類します。
これを三陰三陽といいまして、太陽病、少陽病、陽明病、太陰病、少陰病、厥陰病がそれらでございます。
概ね病状が活動的で、表に現れる場合を「陽」と表現し、逆の場合を「陰」と表現します。
難しいですかな・・・。
五行
『傷寒論』では分類用語であった陰陽は、宗代になると哲学的な文脈でも用いられました。
同時に五行説が取り入れられるようになったのです。
五行と五臓(西洋医学の臓器とは異なる概念すね)との対応は次のように考えられました。
木 ⇒肝
火 ⇒心
土 ⇒脾
金 ⇒肺
水 ⇒腎
表裏と虚実
実は体力の充実している状態、虚は体力の衰えている状態ですが、体のどこが虚しているかがとても重要です。
表実証 ⇒悪寒、頭痛、発熱があっても発汗しない
表虚証 ⇒悪寒、頭痛、肩こりがあり、脈が浮弱で、発汗しやすい
裏実証 ⇒腹部が充満し、便秘・口渇があり、脈が沈で力がある
裏虚証 ⇒腹部が力なく、食なく、下痢・嘔吐しやすく、脈が沈で弱い
気血水
気血水説は古医方を唱えた吉益東洞の考えを、長男の吉益南涯が敷衍した理論であると日本では言われておりますが『黄帝内経』に同じような記述も見られる節もありまして、
表現が違うだけで吉益東洞が考えたというのは甚だ疑わしいとする声もございます。
気滞証 (きたいしょう)
「気」の鬱滞が病気を起こすという発想は古くからみられ、後藤艮山によって大いに唱えられました。
血も水も気によって動かされるので、気の鬱滞は血、水の鬱滞をもたらすということです。
お血証(おけつしょう)
俗に「ふる血」と呼ばれる状態で「血」と呼ばれるものが停滞した状態です。
痰飲証(たんいんしょう)
痰は水、すなわち喀痰を含んだ体液全般を指します。狭義には胃内の停水をいいます。
漢方医学のこれらの理論は、のちに西洋医学から「非還元主義的である」「非科学的である。」又は
「あんなものは医学ではない。」などと批判されることとなりました。皆様周知の通りでございます。
しかし、漢方医学はもともと非還元主義的な、直感主義的な診察を選り好んで採用してきたのではなく、
漢方医学が発達を遂げた古代から中世までの時代においては、そうした診察法しか方法論的にありえなかった、という反論がなされているのです。
環境的にも、仕方のない手法であり、逆に言えば凄いことなのです。
西洋医学に基礎をおく現代の医療が、「還元主義的な医療」を念頭に置くあまり臨床検査データに頼りすぎ、
それゆえにかえって見えなくなる領域、治せなくなる病症がある状況を鑑みれば、
非還元主義的な漢方医療が現代においては、それに対する欠くべからざる補完的役割を果たしていることが指摘されるということです。一理ございます。
さらに「患者を医師の五感でよく観察すべし」という診察法は、どのような医学を修めた医師にとっても共通の指針であるともいえましょう。
それでは、どのような環境で漢方が発達してきたか、振り返ってみましょう。
まず中国漢方の歴史。
古代
殷代の甲骨文などには「医」「薬」といった文字は見当たらず、
まだ人々のあいだに医療という概念がなかったものと思われますが、やがて巫祝(ふしゅく)と呼ばれる、集落の神事とともに人々の病も癒すシャーマン的存在があらわれることになりました。
最初の医療は、今でいう「占い」「魔よけ」にあたるものが主流でしたが、
やがてそこへ生薬などの「薬物療法」や、鍼灸の原初的段階が組み入れられていくのです。
それとともに巫祝も、巫を専門とする神官的な存在と、医を専門とする医師的な存在に別れていったと考えられております。
こうして秦以前にも扁鵲(へんじゃく)などの名医の存在が数々の記録に残っており、
たとえば扁鵲は六不治の一つとして「巫を信じて医を信じざればすなわち不治」をかかげ、すでにこの時代に医者とシャーマン的な存在、すなわち医学と宗教ははっきり分離していたことをうかがわせるのです。
凄いお話しでございます。
中古
前漢(紀元前202年〜紀元8年)の時代には『黄帝内経』という現在知られている最古の医書が編纂されております。
後漢(25年〜220年)の時代に張仲景により『傷寒雑病論』が編纂されました。
張仲景は「ちょう有名」です。
ただ、この『傷寒雑病論』は、長い戦乱で散逸し、雑病の部分だけが見つからず、
『傷寒論』だけが残り、孫思邈の『千金要方』などに、引用文などが書かれてはいたものの、
『雑病』にあたる部分は発見されずにおりました。
北宋時代に王洙が『金匱玉函要略方』を発見し、その後半部分が『雑病』の部分にあたるとして、
林億らによって、『傷寒論』と重複する部分を分けられ、『金匱要略(正式名称は金匱要略方論)』として、
世に出回ることになったのです。
ちなみに、張仲景は、『傷寒雑病論』の序文において、『黄帝内経』を理解してから読まなければならないと書いており、
『黄帝内経』も読まずに『傷寒論』『金匱要略』を軽々しく扱うことには疑問視する流派もございます。
『傷寒論』は現在医学でのインフルエンザと推測される急性熱性疾患をモデルに病勢の進行段階と治療法を論じたとする流派もありますが、
『傷寒』とは狭義の意味は急性熱性疾患であるが、広義は熱性疾患のみに留まらぬ意味もあるため、これもまた意見の分かれるところでもございます。
総合的に、伝統中国医学は張仲景によって初めて理論的に体系化されたとも言われるのです。
中世
金・元時代(960年〜1367年)には金元四大家と呼ばれた劉完素、張子和、李東垣、朱丹渓らが現われました。
『黄帝内経』の理論を元に六淫理論、四傷理論といった新しい理論が表されました。
一方南宋では「太平恵民局」という公立の薬局が設けられて医者や官民に良質な薬を提供するシステムが構築され、
宋慈が『洗冤集録』という世界初の本格的な法医学書を著しており、こうした成果は南宋を滅ぼした元王朝にも継承されました。
また、明の時代に医師の李時珍が『本草綱目』を著して薬学・本草学の分野でも大きな進歩があったことは東洋医学を志す方であればどなたでも周知していることでございます。
さて、我々日本における漢方の発展についてはどうでしょうか・・・。
以下、まとめてみました。
古代~中古
日本には朝鮮半島を通じて、あるいは遣隋使・遣唐使によって中国から伝えられたと言われております。
982年には現存する日本最古の医書『医心方』が丹波康頼によって編纂されました。
13世紀頃には禅宗の僧が医学の担い手となったわけです。
中世
日本で現在の漢方医学といわれるものが発展するのは16世紀になってからでしょう。
明に留学した田代三喜は金元医学を学びました。
その弟子であり織田信長に重用された曲直瀬道三は金元医学を解説した『啓廸集』を著わし、
また医学舎「啓廸院」を創り多くの弟子を教えたことは有名な話です。
金元医学を元にした医学はのちに後世派(ごせいは)と呼ばれます。
この時代に医学と宗教の分離が行われたことも一つの節目かも知れません。
近世
17世紀には名古屋玄医が『傷寒論』への回帰を訴えました。
後藤艮山、香川修庵、山脇東洋、吉益東洞らがこれに続いたわけです。
この流れは古方派(こほうは)と呼ばれます。
後世派が陰陽理論や五行理論といった抽象的な理論に基づくのに対し、古方派は実証的に『傷寒論』を解釈することに務めました。
しかし古方派の実証主義が結果的には西洋医学流入に伴い漢方医学が衰退する一因となったと言っては言いすぎでしょうか。
近代
明治以降は西洋医学を学び医師免許を取得しなければ医師と名乗ることが出来なくなりました。周知の通りでございます。
現在でもこの規程は有効であり、純粋の漢方医は事実上、日本には存在しないことになります。
ここに至り遂に漢方は壊滅の危機に瀕しましたが、1910年に和田啓十郎が『医界之鉄椎』、その弟子の湯本求眞が『皇漢医学』(1928年)を著わし漢方医学の復権を訴え、
西洋医学を学んだ医師が漢方も学び実践する形で生き長らえたわけです。
現代
1950年には日本東洋医学学会が発足しました。小生がなんと一歳の時でございます。
激動1976年、漢方方剤のエキス剤が健康保険適用になり、広く用いられるようになりました。
医学部で西洋医学を学んだ医師たちのあいだでも、かなりの人々が漢方医学に関心や理解を示すようになりましたが、
陰陽五行説など確固たる漢方理論に基づいて漢方医学を理解している専門家は、
2006年8月現在、残念ながらまだ一握りと言わなくてはならないでしょう。
いろいろ、つらつらと書いて参りましたが、漢方の体系そのものが自然と融合し、調和を保つことを念頭に置かれているため、
ややもすると神秘的に、誤解を受けているのが事実かも知れません。
しかし、気の遠くなるような長い年月をかけての治験、人体実験を繰り返しての編纂された学問体系は、実践的でもあり、
現代医療と十分に併用、補完、又は単独で用いることのできる手法であると小生は思っております。
北海道のMK様、大阪のT様、山梨石和のK様、甚だ簡単な説明を含めての拙い回答とさせて頂きます。
「めぐ」